本日、二月の十四日。
二百六十九年にヴァレンティヌスが殉教した日だ。
一説によれば絞首刑らしい。
そんな彼の殉教の日をどこの誰が勝手に男女の愛の誓いの日としやがったのだろう。
理解に苦しむ。
などとさておき、本日はつまりバレンタインデーである。
世界各地で色んな愛が交錯したり衝突したり許容したり、たぶんそんな感じの日だ。
そんな感じの日だったが、彼、古市四有は露ほども今日という日の意味を意識せずに、
飄飄と一日の授業を消化してから放課後、いつものように学校の図書室で読書にいそしんでいた。
時刻は五時。元元大して人がいなかった図書室の静寂がさらに強まったころあいである。
「せんぱぁ――いっ」
やかましい女の声が室内に響いたのは。
委員の眼鏡の女子がびくりとおどろいて震える。遠慮を忘れた力強い足音が四有の背中にちかづく。
「ああ、やあ、鶴見さん」
ふりかえると見慣れたウエーブのセミロング。
にぱっ。という擬音が極上に適しているだろう、ひまわりを想起する笑顔。
高一だけれど平たい胸板が今日も四有に哀愁の念を懐かせる。
そんな彼女の名前は鶴見芽衣子。
四月に図書室でしりあってから、なにかと四有に前後の脈絡がない話をふっかけてくるけったいな女子である。
まあとにかく、しりあいだ。後輩だ。
特徴としてやたらと生傷が絶えない。
「あれ。左手、怪我したの?」
みれば、彼女の左手は包帯でぐるぐるに覆われている。
「ほんとう、よく怪我するよね……転んだとか?」
「あははっ。いえいえ、これは転んだとか、そんなどじを踏んだ結果とかじゃないですよ。
そうですね、愛が故の負傷って感じですかねっ。あは、あははっ」
左手を右手でなでつつ、芽衣子は快活に笑った。
芽衣子はよく笑う。四有がわからない場面では特に。
「愛が故の……ふうん。かっこいいね」
「やだなあ。先輩ほどではありませんよぅ」
「そんなことより図書室ではしずかにし――っ」
「ところで先輩今日は二月の十四日ですよ十四日ですよ」
にこにこ笑顔で四有の言を遮る芽衣子。
「いや、知ってるし別に訊いてないけど……なんかかお近いよ鶴見さん」
「近いと駄目ですか。駄目なんですか先輩」
「笑顔で接近されると妙な迫力が……、な、なに、どうしたのさ」
「ところで先輩の鞄はそれですよね鞄はそれですよね」
吐息すら感じる距離もそのまま、芽衣子が質問してくる。
なんだかくすぐったい。
「それだけど……、って、ちょっと、あ、ああ……っ」
「ふんふ――ん、ふんふふ――んっ」
陽気な鼻歌を披露しながら、鶴見芽衣子は躊躇の意識を欠片も交えずに、先輩の鞄を開けて、右手をつっこむ。
当然のような物色。
鶴見さんはほんとうによくわからない……極めて温厚な四有は特に叱咤はせず、そのまま見守る。
彼女との会話がまともに進展した経験は皆無なのだ。話題はしょっちゅう変わるし、いきなり黙るし、笑うし。
そんな芽衣子にはなしかけられて表情を歪めないのは、この学校で、四有だけなのかもしれない。
などとは、四有はおもわないが。
「ふんふふんふふ――んっ。……ぉ。先輩、なんですかこれはなんですかこれは」
「え……っ」
いいつつ芽衣子が鞄から取り出したモノに、四有はとまどった。
それは紺の紙で包装された四角い箱だった。
可愛らしいピンクのリボン。箱にはシールで手紙が固定されている。
昼に鞄から弁当箱を取り出したときには、そんなモノは鞄にはなかった。
誰かにもらったわけでもない。ほんとうに知らない。
「誰にもらったんですか」
「いや、しらない。……ほんとうに僕の鞄にはいってたの?」
「それはもう先輩の鞄の奥底にまるで封印するようにおしこまれていました」
「へえ……あっ。手紙だ」
四有がようやくきづいて、手紙に手をのばす。
「ふんふふんふんふ――んっ」
「あ」
指先が届く寸前、芽衣子がそれをかっさらう。
「鶴見さん、こらこら、ちょっとそれ渡しなさい」
「ふんふふんふ――ん、ふふふんふふ――ん」
にこにこしながら、鼻歌を交えながら。
「えいっ」
鶴見芽衣子は、手紙を破った。
左手で手紙を固定して、右手で千切る。
その動作に、ためらいはない。
四有はぽかんと、半口をまぬけにあけたまま、みていた。
「とりゃりゃりゃりゃりゃあっ!」
「ぁ、あ……あっ」
何度も千切る。千切る。千切る。
そのまま窓際に移動して――。
「アリーヴェデルチっ」
手紙の欠片と紺の箱をなげすてた。
紙片は雪が宙を舞うみたいにひらひら地面にむかってゆっくりとすすみ。
箱はかなりの速度で地面に接吻した。たぶんつぶれた。
ふう。そんな吐息を一つ、芽衣子がふりかえる。
「あはは――っ。えへへ」
「なにしてんのきみは……」
「ごみの処理ですよぅ」
「そうなの? 僕は中身みてないんだけど、あれはごみなの?」
「ごみです」
「そっか……僕、手紙が添付されたごみってはじめてだなあ」
「あははっ」
「でもちゃんと次からはごみばこに捨てようね」
「はぁ――いっ。ごめんなさい」
まあなげすてられてしまったモノはしょうがない。四有はこれにも特に叱咤は与えない。
しかしあの紺の箱の中身はなんだったんだろう。
「じゃあ僕はそろそろ帰るから、鶴見さんもあんまり晩くならないよう――っ」
「あっ――! 先輩ちょっとまってくださいよ先輩先輩先輩先輩先輩」
連呼しながら芽衣子は四有の腕にだきつく。
「そんなに何回もいわなくても待つよ。なに?」
「こ、これです。これをうけとってくださいっ」
突き出されたのは、赤の紙で包装された箱だった。
可愛らしいピンクのリボン。
これは……っ。
「ごみ?」
「違いまあ――すぅっ!」
「さっき鶴見さんがなげすてたのに似てるから……」
「あれは真実ごみですけどこれは違うんですわたしのいわゆる愛の結晶なんですっ」
「愛の結晶……かっこいいね」
「まじめに聞いてくださあ――いっ! これはチョコですっ」
「チョコ。なるほど……ん? それ僕にくれるの?」
「もちろんですっ」
「……あれ? 僕チョコ食べたいなんていったっけ?」
四有がすごく眠たそうな表情で首をかしげた。はて。
「きょうは二月の十四日ですっ」
「しってるよ」
「つまりバレンタインデーなんですっ」
「……っ! ああ、そっか、忘れてた」
「うきゃ――っ!?」
芽衣子が昔の漫画みたいにこけた。
「大丈夫?」
「そっくりそのままその台詞を先輩にかえしますっ!」
「僕は大丈夫だ」
「それは錯覚ですっ!」
「そっか……じゃあ僕は大丈夫じゃないよっ」
「いばらないでくださいっ!」
はあ、はあっ……。
あまりのつっこみの連続に、芽衣子の呼吸が調わない。
「つまり、わたしは先輩がだいすきだからどうかこのチョコをだまってうけとりやがれっ!」
「そういうことならありがたくいただくよっ。……え? 僕のことがすき?」
「だいすきですっ」
「つまり、つきあってください、ってこと?」
「違いますっ! 結婚してくださいっ!」
大事なステップを何個もぶっとばした告白だった。
「返事はまた今度で結構ですっ! それじゃあ失礼します失礼しますっ」
そしてそのまま、鶴見芽衣子は去った。
遠慮を忘れた力強い足音がとおざかる。
手には、赤い箱。
委員の眼鏡の女子を、四有はみた。彼女もぼうぜんとしている。
「プロポーズされてしまいました……」
「……は、はあ……っ」
なんだこいつら。
彼女の感想はその一言に尽きた。
箱の中身は、六個の四角いチョコレート。
四有は自宅の自室で、それをひとつつまみ、口内にいれる。
かむ。
もちろん甘かった。
なにか、果物の果肉の破片みたいなモノがはいっている。
それもかむ。
「……、む?」
なんだろうこれは。
この感じは……経験が、あるような。
そう。
それをかんだとき。
古びた十円玉をなめたような、妙な錯覚を起こした。
「ふんふふんふ――ん、ふふふんふふ――ん」
バスルームには鼻歌と、打つ水の音が響いている。
芽衣子は上機嫌だった。
ただ全身に水をあびながら……。
包帯から解放された、おのれの左手を、みつめる。
「先輩、先輩、四有先輩四有先輩しうしうしうしうしう先輩先輩先輩先輩先輩っ」
嬉しい。
先輩の内側にはいれたことが。
これでわたしは先輩の一部だ。確固たるつながりを感じる。
右手には、ナイフをにぎっていた。
待つだけだ、あとは、待つだけだった。
三月の十四日。
「ふんふ――ん、ふんふふ――んっ。……ああ楽しみ、楽しみ、楽しみ」
この鈍痛さえもいまは愛おしい。
痛み在ってこそ、先輩とつながっていると、そのことの証明。
「あははっ。あは、あはは、あははっ」
うっとりと。
芽衣子はずっと、みていた。
第二関節から先が欠落している小指を、ずっと。
ずっと。