悪あがきだった。自分でもわかっていたのだ。
真斗夏樹は思い、続ける。
高校生最初の中間テスト。それが明日から開始される。その初日への必死の抵抗を行っていた。数学だった。苦手だった。そして眠たかった。
これは駄目だ。この眠気は殺しておく必要があるぞ。
何故外に出たのかは自分でもよくわからなかった。とにかく座ってばかりいたから弱っているのだと思うことにした。とりあえず近所のコンビニまで走ろう。
なにを買ったのかが思い出せない。――いやそれはさまつな問題か。
問題は、帰路の途中。
耳朶を殴打するクラクション。振り返る肉体。妙にゆっくりと流れ出す現実。
やばい。死ぬ。
その確信を得たのと同時に意識がぶっ飛んだ。
自分の内部から、なにかが折れたような嫌な音が聞こえた。やがてなにも聞こえなくなった。
ここまでだと、諦めた。
ずる、ずる……。
首が痛い。尻も痛い。頭痛が痛い。
霧に覆われたみたいにあやふやな自分の視覚が定まってくるのがわかった。見える。だらしなく伸びている自分の両足、その爪先。ようやく、首根っこをつかまれて引き摺られているのだと理解する。
しかし誰だ。振り返る。
「ぉ、わ」
感嘆の吐息だった。
だって、振り返った目前に綺麗な白色の長髪があったのだ。触ったらきっとすごくさらさらしている。どこか神秘的だった。
「む。起きたか人間」
「どわっ!」
声と同時、首から支えが消失し、後頭部を地面に強打する。
「お、ぉ、おぉおぉ――っ!」
両手で押さえながら、しかし己の声までは抑えられない。めちゃくちゃ痛い。
「さっきまで死体だったのに喧しいな、お前は……」
「う、うるせぃいっ! ぃ……痛い、これは痛い、痛すぎる、死ぬ、死――っ」
死。
死体だった――、耳朶を殴打するクラクション、やばい、死ぬ、その確信、ぶっ飛ぶ意識と骨が折れる嫌な音が聞こえて――っ?
ハッとして、自分の全身を手の平で叩く。
心臓の上、首、両足、尻、両方の頬、最後に股間。
「あ、あれ……っ?」
大丈夫だった。
後頭部を除いてどこも痛くないし、どこも紅くない。肉が千切れていたり、そんなことは、ない。
両手の手の平を見下ろす。普通の肌色で、血液を擦った形跡なんて、欠片も見当たらず。
「なんだ……、ゆ、夢か、ぁ、ははっ……?」
「夢ではない」
否定の声は、即座に飛んできた。夏樹は顔をそちらに向ける。
「ぉ、おい、あんたなんて恰好を……っ!」
頬に朱が注しこみ、慌てて十本の指で前面を覆った。
何者だこの少女は。自分の腰より少しくらい高い、それくらい小柄な矮躯。その全身を覆っているのはぼろきれ一枚だけなのだった。いくら夏樹が年上を好む少年であってもまずい、これはまずい。非常に。たぶん下着とかも穿いてなさそうだしふとした拍子に見えてしまうかもしれない。なにが、とは聞くな。
加えて少女は美少女だった。白い肌はつつけばとても柔らかそうだったし、精錬された顔立ち。
ただ眼がなんとなく猫っぽかった。猫が大好きな夏樹には好都合だが。――高慢な感じというか、そんな雰囲気をその眼球から感じる。
「なんだ。なにか問題があるのか」
「お、大いにあるっ。世には様々な性癖を具える人間が跋扈する現代……そ、そのような恰好で出歩くのは、その、危険というか、何というか……っ」
首を斜めにかしげたまま、あわあわと一人両手をあちこちに動かす挙動が不審の少年。
「そうか……知らなかったな、それは」
顎に手を当てて、ふむ、と納得する少女。
そのまましばし時間が流れる。
夏樹は少女から視線をそらし続けながら考える。あれ、なんだろう、俺は彼女の恰好に注意するのが目的だったっけ……、もっと、なにか心臓を直につかまれたみたいな、それくらいの衝撃的な一言が聞こえたから声のしたほうに振り返って。
「あの、……今、なんて言いました」
「この恰好が危険だとは知らなかった」
「そうじゃなくて、その、一個前」
ああ、少女は思い出したらしく納得の声を漏らしてから。
「夢ではないぞ。お前が死んだのは――お前がそう疑ったとおり、現実に起こった事実だ」
言った。
「俺が、」
公園の外灯が、自分を照らしている。
渇くのどを意識して。
「死んだ、って……?」
声に出して、夏樹は言った。
ようやく視線をそらすことをやめて、少女を正面から見据える。
「くるま、というのか、あれは……それに激突されて、死んだ。見てたが、たぶん即死だった」
「は、ははっ」
即死。
なんだかその言葉が無性におかしく感じられた。嫌な汗を流しつつ、夏樹はそれでも笑い続ける。だっておかしい。矛盾しているじゃないか。
「なんだ、そりゃ……はは、は、おかしい、おかしいって、それ」
「おかしいのか」
不思議そうに首を傾げる少女だった。
彼女にはとうてい、彼の感じる確かな矛盾に気付ける道理はない。そんな存在なのだ。
「だって、俺、生きてるじゃないか。どこも痛くないし、血も出てない、腕だって」
ぶんぶん片腕を回す夏樹。
その腕は、少女がかじった腕だったが、死んでいた彼がその事実を知りえる手段はない。
「私が、お前に血を与えて生き返らせた」
「い、生き返ったって、おいおい」
そんな、漫画とか小説の世界じゃないんだぞ、現実ってのは。
死んだら終了なんだ。
「――まあ、信じられないのも、無理はないか」
溜め息と同時、少女のそんな呟きが聞こえる。
「では、しっかりと認識させてやる。これも主人の義務だ」
「、はぁっ?」
夏樹が言葉の意味を理解しようと努力を開始した、その瞬間。
尊大な仕草で少女は右手を前方に突き出し。
五指を広げ。
「命令する。――太く伸び、対象の右腕を貫け」
言霊を紡いだ。
自分は元気だ、死んでない、その証明としてまわしていた右腕の動作が――止まる。
「ぁ、え」
右方を振り返る。
なにかが、自分の右腕を貫いていた。それは貫通して、地面にまで突き刺さっている。
だから動かないのだ。
さらに見上げる。公園に点在する樹木の一つ、ちょうど夏樹の背後に伸びていた枝が――ありえない、さらに成長して伸びたのだ。その成長の勢いのまま、枝は夏樹の腕の筋肉を引き裂いて通りぬき……地面に、刺さったのだ。
改めて地面を観察する。枝は逞しく太い……まるで、これは槍のよう。
その槍が紅く染まっていく。
自分の、血だった。
「ぁ、ああ、うわあああああっ!」
「命令する。――元の位置まで退行」
再び言霊が投げられた瞬間。
少女に従った枝は、その先端から徐々に小さく、短く、元の位置まで戻っていく。
「ぁ、ぐぅあ」
夏樹の右腕からも抜けて……普通の枝に、なった。
先端から中ほどまで、紅かった。
「ぃ、た、ぃい、ぅ、あ、ああっ……!」
体験したばかりの異常な光景よりも、夏樹は襲ってきた激痛に、傷口を押さえてしゃがみこむ。驚愕する余裕がない、それくらい痛い。後頭部を強打した痛みなど、一瞬で吹っ飛んだ。
溢れる血液に恐怖する。
死ぬ、死ぬんじゃないかこれ、やばい止めないと、止まれ、止血、縛らないと、ぁ、ああ。
「ぁ、ああ……ぁ、れ」
今度こそ。
驚愕して、痛みに喘ぐのを、忘れた。
というか――痛くなくなってきていた。
「なん、だ、よ、これ」
じゅう、という肉が焼けるような音を出しながら、傷口から蒸気がのぼっているのだ。
抉れた肉が蠢いている。血塗れだった腕は気付けば傷口を除いて肌色で、なんだか血が意志を持って傷口まで戻りました、と。そんな感想さえ浮かんでくる。
さっきの、枝が唐突に成長したときよりも、異常だと思った。自分の肉体で現在起こっているのだから、尚更である。
やがて蒸気が消えた。傷口がようやく視線に露出する。
――自分の右腕が見えた。
綺麗な肌色だった。何分か前の状態と同じだった。
この腕だけ、時を逆行したかのよう……違和感が、ある。腕を貫かれて、あんな短時間で完璧に癒えるなんて。そんな現象がなしえられたのだとしたら――もし、自分がぐちゃぐちゃに潰れてしまったとしても、これならば。
元の長さに戻った枝を見つめる。中ほどまで紅いはずの枝は、どこも紅くなかった。
「生き返った、って……ぁ、はは」
「どうだ。納得できたか」
見上げる。
自分を見下ろす、白髪の少女がいる。
「まあ、語弊があったか。正確には生まれ変わった、と言うべきだった」
「ぅ、生まれ変わったって、お前、それじゃあまるで」
「お前はもう人間ではない」
その断言で、夏樹の言葉を封じた。
「そして私も人間ではない」
自分の、指で指し示す。
夏樹はふらふらと立ち上がりながら、じゃあ、と前置きし。
「なんなんだ……お前は、いったい、なんなんだよ」
「鬼さ」
堂々と、それが当然なのだから。
いわんばかりに少女は貧相な胸を精一杯張って、答える。
「食人鬼。人を食らう鬼。――そして死体だったお前はその血肉の香りで見事私を誘惑し、本能を目覚めさせた。私はこれからお前を食わないとおかしくなってしまう。だから血を与えた。生き返らせた――これからも食らうために。お前が生まれ変わった理由は、それだけだ」
夏樹の鼻先に、その白い指が突きつけられる。
「故に、餌人。これからお前が自分の存在を認識するときは、この呼称が一番道理に合っているぞ」
無感動にその鬼は言った。
夏樹には。
その少女がとても、鬼には見えなくて、自分が一度死んだなんて現実を受け入れたくなくて。
ただ。
黙っていることしか、できない。