「え、さびと……っ?」
言葉に出せばこの現実を飲み下せる、なんて思わない。
思わないが――夏樹には、オウムに返すリアクションしかできなかった。
「ぉ、俺は、死んだのか……、ほん、とう、に、ぃ?」
この両手も。
もはや人間のそれではないと、先ほど、理解させられてしまったから。
だって、ありえない。あんな大怪我が数秒で完治するのだ。普通なら出血が止まらないで、そのまま絶命まで至りそうな、右腕が千切れかけるほどの損傷。それが、自分が見ている目前で、ビデオの映像を巻き戻すみたいに――血液までもが、戻っていく。
こんなのは人間ではない。
人間だった真斗夏樹は、間抜けにも信号を無視して車に轢かれた。そして死んだ。
「嘘だろ、ははっ……? こんな、あっけなく、死んで……?」
「死は生きているモノには常に身近だ。別に驚くことではない。――人間は脆いからな」
淡々とした少女だった。
彼女の言葉に間違いは、ない。いつだって死んでしまう可能性というのは溢れている。事故か病か、自業自得か。原因などいくらでも。ただ、夏樹は簡単に納得したくないだけだ。だから無意味だとどこかで理解しながらも、嘘だと、言いたかった。
「まあお前は生き返った。死に一度逆襲した……人間にはできない経験だ。前向きに考えろ」
ぽす。
背伸びした少女に、頭を軽く叩かれる。
夏樹は改めて、その白髪の鬼を見下ろした。
「む。なんだ。まだなにか、氷解できていない疑問があったか?」
一歩、後退。唾を嚥下する。
ようやく麻痺していた未知への恐怖が復活してきた。わからないが、とにかくこの少女も人間ではない。それに思い出したぞ、なんかこいつ、俺を食うとかなんとか……っ。
さっきの枝を伸ばしたのも、絶対にこの少女の仕業だろう。
太く伸びてくる枝。まるで槍だった。貫かれたときの激痛を思い出す。
「遠慮はいらんぞ。なんでも聞いてみろ。これも主人の義務――っ」
「ぅ、わ、ああぁっ」
少女が喋りだすのと同時、反転して夏樹は駆け出した。
わからない。わからないが逃げないと、振り返るな、逃げろ、自分の肉体の異常も今は忘れるんだ。
「――これ、主人を置いて勝手に走る下僕がいるか」
ぽつりとぼやく。もちろん夏樹には聞こえていない。
慌てたそぶりも一切その矮躯から滲み出させずに、少女は空間に言葉を走らせる。
「餌人に命ずる。――さっさと私の前まで戻って来い」
やや大声の、それ。
力をともなった言葉である。
夏樹はその言葉を聞いた。たとえ耳を塞いでいても、無駄だった。彼の血肉を縛る鬼の血液の鎖が――少女の命令に従うのだから。意思は無視される。
「あ、ぁ、れっ!?」
疾走が停止する。砂埃が足下で起こった。
反転する。もちろん夏樹には振り返ろうと言う意思が無い。だが逆らえなかった。
そのまま、同じ速度で彼女の前まで駆け出す。
「な、なんだ、なんで俺、勝手に動いて……っ!?」
「ふん。仕置きが必要だな――よし、餌人に命ずる。それに頭突きを敢行せよ」
少女は外灯を人差し指で示す。
あれは硬そうだった。
痛そうだった。
「思いっきりだ、めちゃくちゃな」
「ぇ、ちょ、ちょっと待って、ねえ、俺なんで逆らえないの、ぉ、おおっ!」
数秒後。
深夜の公園に、金属が響く澄んだ音と少年の絶叫が響き渡る。
「ご、ごめんなさい、やめて、許して……っ」
さて数分後、そこには少女に土下座する一人の男がいた。
浮気がばれて彼女に追い詰められた彼氏という解釈も納得できるほど必死である。なにせさっきから頭突きやら奇妙なダンスやら宙返りやら、色々と無茶苦茶で恥ずかしい行為を強制させられているのだから。このままでは最終的にどんな行動を命令されるのか、おそろしい。
「……何故、逃げた」
少女は言った。
さっきまでの高圧的な感じとは違い、なにか、静かだった。
寂しそうな、と言うのが、夏樹の懐けた感想だった。
「怖がらせた、のかもしれんな」
声音は変わらない。
「右腕を貫いたのは、すまん、いきなりだった、許せ……お前に現状を理解させるのには、あれが最速で適当だと思ったのだ」
恐る恐る、顔を上げれば。
両手を腰に当てて、尊大に立ち、しかし顔は斜めに傾いている少女がいる。
これは人間、しかも自分の餌人にこんな困った表情を見られたくないと言う――一匹の鬼のささやかな矜持がある故にだったのだが、夏樹にはそこまで深く読めなくとも、その仕草がひどく人間っぽく、かつ、可愛いとさえ、思えた。
「ぁ、あっと……あ、うん、そうです、すいません、怖がってました、はい」
「ぬ……そうか、怖いか、私は」
トーンが落ちる。首の位置も落ちる。
「いや、その……まともに話も聞かなかった俺が全面的に悪かったと言うか、だから落ち込むことは」
「落ち込んでないぞ。落ち込んでない、別に、私は落ち込んでない、ぞ」
夏樹に目線をぶつけながら、ぶんぶん、ぶんぶん、首が左右に動く。
否定しすぎて逆に怪しすぎた。
「落ち込みましたよね」
「そんなことはない、ありえない」
「嘘でしょ」
「私が嘘吐きだと。くだらん。私はいつだって公明だ」
「じゃあちょっと落ち込みましたよね」
むかっ。
「――一度で理解できない馬鹿には仕置きが必要だが」
「あ。いや、すみません、冗談ですよ、はい」
威力をともなった声に夏樹は問い質すのをやめた。
理由はわからない、けれど確か。
自分は、彼女の命令に逆らえないのだから。
真斗夏樹は、自分の髪を掻いた。めちゃくちゃに。
公園のベンチ、ほぼ裸体の少女と座りあって。
時刻は四時。
とつとつと、喋り始める。
「なるほど。あなたは食人鬼という種類の鬼で、その鬼は最初にかいだ人間の血肉にほれてしまう本能があると」
「うむ」
「そんなあなたは偶然にも車に轢かれて死んでしまった俺の死体を見た。その死体の香りにほれちゃった」
「ぞっこんだぞ」
熱い視線を感じる。
「惚れてしまった血肉は生涯求めてしまうから、俺が死んでしまうのはまずい、このままでは欲求が不満で発狂しておかしくなる」
「とってもまずいのだ」
「そんな本能を持つ故に、食人鬼の血液には不死の神秘が宿っている」
らしい。
「だからそれを俺に与えた。だから俺は死なない肉体を得た。――あなたの餌人に、なった」
「そうだ」
「そして」
眉間に、ぎゅうと、皺がよる。
「餌人は定期的に鬼の血液を摂取しないと――死ぬ」
死ぬ。
今の夏樹には、なんだか笑える言葉だった。
「言っておくが嘘ではない。お前の現状を説明するのは主人の私の義務。その義務に虚偽を交える無礼は働かん。断じて、だ」
「は、はあ……」
少しは疑ったが、もしも本当だったら――という思考がかすめただけで、夏樹は疑念を捨て去った。
二度も死ぬのはごめんである。
何よりも、この少女に嘘吐きの才能がからっきしなのは、さっき証明されたことだ。
「あの、そうなると……、ぇ、と、その」
指を組み、肘は膝に、いかにもな姿勢である。
「お互い、持ちつ持たれつ、というわけですか」
「そうなるな」
「えっと、ぉ……じゅ、住所はどちらでしょうか」
「住所。住処か――かつては、私にも」
夏樹は、鬼の横顔を見た。
「在ったのだが、な」
なんとなくだけれど、寂しそうだなと、想えた。
少女は立ち上がり。
「とにかく、現状は把握できたようだな。朝も近い。今日のところはお前も自分の住処に帰れ」
「ぇ、あ……で、でもっ」
「餌人に命ずる。――お前の事情と私という存在を決して口外するな。それと、明日も今の時間に、ここに、絶対に来い」
鬼の言葉は。
餌人には絶対である。
「ぁ……、はい、わかりました」
無意識にその返事を、自分が発している。
うむ。と、一度、少女は満足そうに頷いた。
「帰途の道中注意せよ。轢かれるなよ、二度も、な」
地面を蹴る。土が抉れて砂埃が前面に展開する。
夏樹は見上げた。
白い髪の鬼が、ふわりと、羽毛が風に翻弄されるみたいに……跳んで、いた。
やがて、見えなくなって。
「……名前、聞いてないな」
ぼんやりと、夏樹は呟いた。
眠たげな頭で、考える。
何故自分は電柱の頂上から、さっさと逃げなかったのか。
血肉の香りが漂う以前にその場から退避していたのなら、自分の本能は眠ったままだったし、あの死体は死体でしかなく、自然の道理に遵い、人間としての終焉を享受できたというのに。
何故、私は。
あいつが自分を怖がっていると理解したとき、落ち込んだのだろうか。
怖がられるなど、考えれば当然なのに。
それは嫌だと……っ? そんな、まさか。
――まあ、いい。
生き過ぎていると、気紛れの一つ、起こしてしまっても何ら不思議の介在する余地はないだろう。
ともあれ。
しばらくは、退屈しないで、時間を過ごせるかな……。